またっここのとこ
少し気持ちが不安定になってるって思って
更に不安になることもあるけど、母や父はまた違った不安定もあるんだなって、
でもそれを分かってあげられるのは自分自身しかなくて。
両親の不安や不満は私には完全にわからないし、その逆(私の気持ちは両親に)も分からないのである。
私より多くの年月を過ごしていて、同じような年頃を迎えたことはあるだろうが、過ごしている時代背景が違うということはまず、それこそが相違点であると言うことを忘れないでほしい。
わかっているような気持ちでいる方が多い気がするが、本当に同じ時間を同じ空間で過ごしていてもその人の気持ちは1ミリも離れることなく同じなんてことはなく、その溝を埋めるのは理解や雰囲気の把握だと思っている。
その人の経験してきたことが違うならなおさら、同じ物事に関して違うことを思うだろう。
人にとっての喜びは悲しみであったり
怒りが、楽しみだったりする。
互いに感情がわからない分、私達は同じ感情を持つ人間だということがよくわかる。
難しい話は嫌いだから好き嫌いで話してしまうけども人間の行きつく先はただそれだけなのではないか
感情や何かを思う、感じることこそが今の身体という物質を超えて何かを大きく動かす実態となる。
中には目に見えないものが物質化してしまったり、目に見えてしまうとそこで物語や思想が完結されてしまう。
ように見えるが、
その先を見ている人たちはそんなものは関係なくただ先を歩いていくのだ。
私達は排泄物を出すように
その時の軌跡を残し?また新たな道を切り開いてると言える。
私の独特な言葉遣いになれない人は多いかもしれないが私というものを解き放ってしまうとそういうことがあ起こってしまうのだ。
普通の人間ではいられない
それが長年の悩みであったがもうそれは一回手放してしまおうか。
私は私でいいと
言えるその日に
また本当の意味で手放しが行えるかもしれない。
まだ、いや、もう焦らなくてもいい
焦っちゃってもいいけど
焦らないでいいのかもしれない
今の私を大好きと言ってくれる自分がどこからか声をかけてくれる
私は自分を愛してただ其の声を
耳を住まえて待っていればいいのかもしれない