言うの怖かったんだけど

言うの怖かったんだけど、記録、日記として残しておく。

今情報に溢れ、互いに恨み疑うような記事が横行し絶望や不安を煽ることが多いと私は感じています。
しかし自分の身は自分の身で守っていくしかありません。だれかのいうことをい聞いて正しいと思ったり思わなかったり、国や法制?が決めたことを自分なりに判断し決める事は人権の確保として認められているはずです。
しかし、今のメディアや周りの人はどうでしょうか?
私自身も人を疑い生きることが困難に感じることがあります。しかし、疑いの根源は恐怖にあります。その感情に拍車をかけるような報道や情報が知らないうちに刷り込まれているのです。
電車内アナウンス、テレビ、ラジオ、広告、SNS、生活用品、、様々な身の回りから少しづう発せられる情報は日々触れるものの中に潜んでおりいらないと言ってもどうしても触れてしまうものです。意識的に避けるか、折り合いをつける必要があります。そして、そのことに関して部外者、他人が口を挟むような事はしてはいけません。人がどのような判断や決断思考を持とうとその人としての権利があるのでその権利を他人が持つような発言、行動はしてはならないのです。何を言ってるかわからないかのしれませんが、具体例、予防接種を打とうが打たまいが、他人の判断に身を任せてはいけないということです。私達には脳みそがあります。
相手を思うがゆえにそのような行動(侵害行動)に及ぶ場合もあるからです。しかし、それは事実を捻じ曲げた思想であって相手を服従するようにも見えてしまうのです。全ては見方で変わってしまいますが、正義と正義がぶつかり合うとき争いが起こったります。どちらも熱量があるからです。
私は日々友人や家族を大切に思っていますが彼らが他人を批判する発言を聞くとかなり落ち込みます。そして同時に怒りも感じるときもあるのです。
大切な人が、誰かの大切な人を批判している。

私にも苦手な人は居ますが、やはり何にせよ気分を害したときは少し心拍数が変わると思うのです。体内の熱量も変わりそうです。
愛の熱量が大きければ大きいほど失恋の痛みは大きいみたいな変なセリフのように私達は色々な方向から思考や言動が交差し繋がています。そして今個体として私が成り立っていますが思考は個体ではありません。
まあ、学術的には色々あるんでしょうが置いておきます。
つまり、人は人を制する事はしてはいけないのではなくする事はできないのです。
私達は常に自由です。自由に生きていいはずなのだと思います。
今の気持ちを十分に感じ、私として私を生きていきたいと思うのです。

ではまた:D